安全・安心、最近どうもこれが社会をみるキーワードになっているようだ。耐震偽装、食品偽装などが世の中を騒がせてきた。これは言わば人災である。安全・安心というと地震やサイクロンなどの自然災害のことも念頭におかなければならない。それから、火災や犯罪などもそうだ。なんとフィールドが広いことか。
そもそも“安全・安心の社会を!”というとき、その社会は安全・安心でないことを自ら露呈していることになる。安全・安心でないから、ことさら安全・安心を取り上げなければならないのだ。だから、この安全・安心を考えるといったとき、最初からこの矛盾を孕んでいること、パラドキシカルであるということに注意しなければならない。
昔、日本船舶振興会のコマーシャルに「戸締り用心、火の用心~♪」というのと「人類みな兄弟!」という違う2つのバージョンがあった。この2つの放映を見た小学生が“こども電話相談室”というラジオ番組に「なぜ、人類みな兄弟!仲良くしようと言っているのに、戸締りをして人を疑うのですか?」という質問をして回答者が窮地に追い込まれたという笑い話がある。純粋無垢なこどもからすれば、全く逆のことじゃないかということになる。しかし、本音と建前を使い分ける大人の世界ではこれが当然だし、疑問にすらならない。だから、そういう意味でこの質問はものすごくピンポイントで人間社会の矛盾を突いていて面白い。
「米海軍とは信頼関係があるから大丈夫。どんなささいな情報でも市に報告があります。 米海軍が事故は起こらないと言ってるから大丈夫。でも、万が一のことを考えて安全対策もとらなくては・・・。」蒲谷市長の答弁は日本船舶振興会のコマーシャルの矛盾と根っこを一にしてないかな。カンガエスギカナ。
私が今、安全・安心を考えるとき、それは原子力空母の横須賀配備に関しての安全・安心ってことだ。これは安全・安心といったときすごく狭義になるのだけど、このことについて一般的な広義の観点も含めて少し考えてみたい。
そもそも安全ってなんだろう?安心ってなんだろう?
文部科学省が2003年に行った「安全・安心な社会の構築に資する科学技術政策に関する懇談会」では以下のように示されている。
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安全とは、人とその共同体への損傷、ならびに人、組織、公共の所有物に損害がないと客観的に判断されることである。ここでいう所有物には無形のものも含む。 |
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安心とは、個人の主観的な判断に大きく依存するものである。人が知識・経験を通じて予測している状況と大きく異なる状況にならないと信じていること、自分が予想していないことは起きないと信じ何かあったとしても受容できると信じていること。 |
そして、 安心は安全と信頼が導くとして以下のように書いている。
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人々の安心を得るための前提として、安全の確保に関わる組織と人々の間に信頼を醸成することが必要である。互いの信頼がなければ、安全を確保し、さらにそのことをいくら伝えたとしても相手が安心することは困難だからである。よって、安心とは、安全・安心に関係する者の間で、社会的に合意されるレベルの安全を確保しつつ、信頼が築かれる状態である |
実に興味深いではないか!(って思うのは私だけ?)“互いの信頼”って言葉が出てきたよ・・・・。
臨時議会の総務常任員会の中で私は企画調整部に「安全とは何で、安心と何ですか?」という質問をした。これはおちょくってこんな質問をしたのでも何でもなくて、認識を一致させたいために繰り出した質問だった。私の質問力の低さから掘り下げた質疑には至らなかったのだけど、背景としては漠として上記の中身があった。
安全というとすぐに対策という言葉がくっついてくる。物理的なこと、目に見えることなのでわかりやすい。しかし安心というとつかみどころがない感じがする。文部科学省が言ってるように“個人の主観的な判断に大きく依存するもの”だからだ。しかも信じる、信じないといったあいまいな感情だからだ。
人によって「あぁ、これで安心」というレベルが違うわけだ。100%安全というのはありえないので、したがってこれでいいということはないから、市長も安全・安心のために不断の努力をいたしますと言わざるをえないのだ。このように安全と安心は似て非なるもので、安心というのは文字通り人の心の問題となる。
市議団で論議をした際に「横須賀市が行ってきたのは安全対策ではなくて安心対策だったのではないか?」という話がでた。これは言い得て妙じゃないかぁ。しかも、この安心対策が成功してないってことだ。今もってね。専門的な原子炉のことは軍事機密、米軍が安全ですというので安全です・・・これじゃ、安心できないしむしろ不安になる。安心というのは周知が前提条件になると思う。できるだけたくさんの情報を詳しく知らせてその中で、市民に判断してもらう、そういう流れがあって、1人1人の市民が安心を得ていく。しかし、こと原子力空母となると、軍事機密があるがゆえに、この前提条件が成り立たない。謎のベールに包まれたまま、そこは触れずにとにかく安全を繰り返す。
つまり、原子力空母の問題ってのは安全・安心の対象に“なじまない”ものなんじゃないのか・・・・?。文部科学省は安心のためには“信頼を醸成することが必要”って言っている。しかし、その信頼は手品のようにひょっと出てくるものではなくて、客観的な根拠の積み上げによってされるものだ。安心とは強いられるものではなくて、繰り返しになるけど、1人1人が自分自身の心で感じるものだ。だから、原子力空母の問題はかなしいかな安全・安心のカテゴリーには入らない気がする。市長は米海軍と信頼関係を結ぶ前に市民との信頼を醸成するべきじゃないのかね。
そういうことを考え出すと、市が行ってきた説明会や防災訓練や米海軍と結んだ防災協定などすべてが茶番に見えてくる。(やっても意味がないと言ってるのではない)
一番安全・安心なのは、いたって簡単、原子力空母の横須賀配備を撤回すること。これが何よりの安全・安心だ。
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