れんがの博物館にさよならをして、次に向かったところは「引揚記念館」。画像の説明どおりたくさんの人々が舞鶴から日本に帰ってきたのだ。説明してくれた方は、シベリアでの抑留生活をリアルに語ってくれた。パンを分けるときには中の柔らかい部分と周りのミミの硬い部分を人数分に均等に分けたそうだ。柔らかいところよりも硬いところの方が取り合いになった。なぜかというと、硬い方が腹持ちが良く空腹をこらえるのに好都合だったからだという。展示物にはマージャンセットなどもあった。どんなに苦境でも人間は気晴らしや遊びを忘れないということか・・・。ホモ・ルーデンスとはよく言ったものだ。
この3人の影のポスターの字は右から左へ読むようになっている。「大陸日本 築け若人」「満蒙開拓青少年義勇軍募集」と書いてある。私がなぜこの画像を撮ったかというと、父のことを思い出したからだ。父は既に死んでいるが1927年生まれで生きていれば今年の誕生日で81歳、終戦時18歳である。父はお酒を飲むとよくこの「満蒙開拓義勇軍」の話をしていた。実際はこの「満蒙義勇軍」には加わっていない。加わるかどうかそうとうに瀬戸際だったらしいが加わらずに済んだのである。父は何でも兵隊に加わる身体検査の際に醤油をガブ飲みして免れたらしい。酔うとその話をいつもしていた。どういうつもりでそんな話を繰り返すのか、未だによく理解できないけれど、少なくとも人殺しにならずに済み、残留者にもならずに済んだことはラッキーだった。こう書くと今の75歳以上の方々は好きで戦争をやった人はいないとおっしゃるだろうけど、たまたま、本当にたまたま父は人殺しをしないで済んだということに私は胸をなでおろす。お祖父ちゃんにいたってはわからない・・・たぶんお腹に鉄砲の弾の跡があったから(彼はそれをこともあろうに自慢にしてた!)そうとうなことをやってきたのだと思う。
舞鶴は13年間という長い間引揚者を受け入れてきた。そしてもう戦争はしてはならないということで、平和の願いを込めてこの記念館をつくり運営している。
横須賀はどうなの?と考えると、やっと昨年西浦賀に引揚の碑ができた。浦賀も確か50万人を超える引揚者を受け入れているはずだ。地元の人々の語り継ぐ運動などで立派な冊子は出来ているが展示館、博物館といったところまではいっていない。本来なら浦賀にもこういった引揚の歴史を学ぶ場所があっていいよなぁと思った。浦賀の場合はコレラが大発生して上陸できずに亡くなった方々がたくさんいると聞いている。悲しいけれど、これも歴史の事実であり語り継がれなければならない。
引揚記念館を後にして、市議団で少し感想などを話し合う機会があった。
「極寒の地で抑留された人々の暮らしがどんなに辛いか、よくわかった。帰国した人々がどれほど喜んだかもよくわかった。しかし、なぜ、日本人が、父や夫や息子たちが大陸へ渡ったのか?・・・・そこが問題だよね。」
「そうそう、なぜそういう状況になったのかそこのところをもっとしっかり語ってくれなくちゃ。」
「加害の歴史にきちんをスポットをあてないとね。可哀想だったね、それで終わりにしちゃいけないんだよ。」・・・・そんなことをみんなで話しあった。
つづく。
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