考えてみれば、昨日の鎌倉のトークセッション「人間らしく生きられる社会を!」というのは壮大なテーマだなと思う。人間らしくってどういうことだろう。以前にエホバの証人の人と定期的にお話する機会があった。その時に「人間は不完全なものだから過ちを犯す」と言っていた。つまり神を前提に物事を考える人々にとっては人間らしくというのはある意味造られたものとして生を全うするということなんだろう。いろいろ紆余曲折を経て唯物史観の立場に立つことで落ち着いた私は社会の中の自分を意識して生きるようになった。
昨日のお話で、内橋克人さんが生産条件と生存条件の話をされた。人類の歴史はいかに生産性をあげるか、その試行錯誤の繰り返しであった。頭をよぎるのは学生の頃習った歴史の教科書のはじまりだ。縄文時代は近年まで原始的な狩猟採集が中心と言われてきたが、実はすでに栗の栽培をしていてしかもたくさん実のなる強い栗を栽培していたことがわかった。私たちの祖先はそうやって行き当たりばったりの毎日ではなく先を見通してどうやったら、もっと楽にたくさん富を手に入れるかを考えて実践していた。しかし、今や人間の労働が軽んじられ生産性を上げるために、あるいは富の蓄積のために生存そのものが脅かされるようになった・・・・ん~マルクスみたい(笑)つまり「年越し派遣村」に見られる状況は生産条件と生存条件の矛盾の顕著な現れというわけだ。内橋さんは4つの生存条件をあげる。①生き行く日々が経済的にも精神的にも治安的にも安全であるということ②自由に生き方を選択できるということ③社会全体が①②を備えていて価値観を共有し排除がないということ④最後にそれらが持続可能であるということ。
これはなかなか高度なことだ。長い人類の歴史の蓄積の最も先端の部分で私たちいまを生きる人々は高度なことを要求されている。知恵の絞りどころだ。「ただ生きるのではないんだよ、よく生きることが大事なんだよ。」ソクラテスのこの言葉が私は好きだ。よく生きるってどういうこと?考えながら暮らし、暮らしながら考えていこう。それしかない。
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