とあることから宗教関係者の方とお話する機会があった。浦賀は港をはさんで西にも東にも神社仏閣が点在する。その中のお一人が「共産主義は宗教とは相いれない。宗教は麻薬だと言ってるじゃないですか。」とおっしゃった。
ムムム・・・。
その言葉は胸の中に投げ込まれ波紋を広げた。
マルクスは初期の著作『ヘーゲル法哲学批判序論』に「宗教は、逆境に悩める者のため息であり(中略)、それは民衆の阿片である。」と書いている。(まだ読んでないけど・・・。)これはあまりに有名な言葉で、なにかと共産主義は宗教を軽視している風に見られる根拠ともなっていると思う。
でも、実はこの文章、ドイツの詩人でマルクスの親友だったハインリッヒ・ハイネの1840年の著作『Ludwig Borne iv(ルートヴィヒ・ベルネ)』中の「宗教は救いのない、苦しむ人々のための、精神的な阿片である」から引用したものと思われている。さらに当時は阿片は痛み止めの役割をはたしていたとのことで、マルクスはどうも麻薬というよりは一時の安らぎというか疼痛緩和の意味合いで使っていたようだ。
あまりに印象的な表現なので言葉だけが独り歩きしてしまったようだ。
でも、これを書いてる今は、ネットで調べてここまで行き着いたけど、「宗教は麻薬だと言ってるじゃないですか?」と言われた時には返す言葉がなかったのが事実だ。
ケッコー、比喩とか言葉遊びが好きなんだよね。髭もじゃカールおじさんは。
一緒にいたYさんは「共産主義も一種の共産主義教だね。」と言った。
確かにまだ見ぬ未来のことを信じて(そうそう、信じてなんだよね。)今を活動してるんだものなぁ・・・。でも、これは私の狭さかもしれないけれど、宗教はやはり能動的でない気がする。他力本願(広義の)的な印象を持つ。
政治はビジョンや理想を掲げつつ、今、目の前で展開されている世界にたいして良いものは伸ばし良くないものは変革していくその積極的なかかわりを進める。
たぶんもっともっと深めていくと相反するものではないのだろうけど、浅はかな私にはまだわからない。このあたりは今後の人生の課題としていきたい。
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とてもパラドシカルなのだが、Yさんが、「共産主義教」という表現をした。その背景には小林多喜二がいる。多喜二は拷問されて虐殺されたが、最期まで転向しなかった。Yさんは「オレなんかすぐしゃべっちゃうよ。大村はこうで、こうでこうでなんて尾ひれまで付けてしゃべっちゃう。」ゲラゲラ笑いながら聞いていたけど、これが偽らざる気持ちだろうと思った。
してみると、多喜二という人物はなぜ、これほどまでに自分の生命まで賭して共産主義を体現できたのだろうか?
それをYさんは「共産主義教」と表現するわけだけど、未熟者の私には甚だ理解できない。憧れるけど、真似しよったって真似できない。
昨日はそんなことで、異質世界を垣間見たようで、エキサイティングだった。90度違う世界、180度違う世界、いろいろな方々と交わりながら考えていきたい。それはとりもなおさず、自己を強固にすることでもあると思っている。
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