今日、生活保護の面接の予約をお願いした。
生活困窮の相談が途切れなくくる。
高齢になって年金が少ない、あるいは全くないという人で
預貯金のない人は、大金持ちの兄弟か子どもがいればべつだが、
生活保護受給者になるより道はない。
年金で暮らしていけない人が多い、多すぎる。
質素で堅実で働き者の日本人が
なぜ、高齢になって年金で自分の暮らしを賄えないのか。
その人個人の責任というより、
国の制度、日本人のライフスタイルにあった
社会保障制度をしっかり構築して、国民に徹底してこなかった
政府の責任が大きいと私は思う。
毎日新聞の調査によれば生活保護受給者が
2月時点で200万人を超えたという。
過去最多は1951年の204万6646人。
戦後の混乱期で今から60年前。
このままいけばこの「記録」も超えそうだ。
年金で暮らしていけない高齢者、
経済不況で職につけない人たち、
さらには3.11の震災で住居や仕事を失った人々、
大変な数の人々が生活保護制度を利用するようになる。
電力事情もさることながら
生活困窮問題も大変だ。
スカオヤジ66さん
長文のコメントをありがとうございます。
生活保護申請の面接に対する、私の思いはこの4,5年の間にずいぶん変化したと思います。
以前はゴリゴリ職員に迫っていましたが、市の職員も国の厚生労働省からの通達などに従って仕事せざるを得ない部分があり、また実際困難ケースをいくつも抱えていて苦労していると言えます。
言うべきはもちろんはっきり言いますが、最近は職員の立場も考えることが、急がば回れなのだと思うようになりました。
投稿情報: 大村洋子 | 2011年5 月14日 (土) 18:21
江戸から明治に日本が変革した時の日本の経済力が、生糸と茶にしか頼れないほど何も無かったのはご承知の通りです。フランスでの蚕の伝染病と中国でのアヘン戦争のおかげで日本の生糸は女工哀史を生むほど輸出できました。しかし、それに携わっていなかった人たちは、職は無く食べることが出来ず「移民」という生活手段を選びました。明治20年代から米国本土、カナダ、オーストラリア、ニューカレドニア、フィジー、西インド諸島、明治30年代からメキシコ、ペルー、フィリピンへ移民が本格化しました。明治41ねんになりブラジル移民が開始され多くの日本人が職を求めていきました。
昭和8年には満州への移民が始まり、昭和35年の三井鉱山の炭鉱閉山の時もブラジルへの移民が行われました。
戦後の日本の景気は、特需景気(1946年8月~1953年2月)、神武景気、岩戸景気、オリンピック景気(1954年11月~1961年7月)、いざなぎ景気、列島改造ブーム(1965年7月~1973年1月)、日本製品ブーム(1974年10月~1981年8月)、バブル経済(1982年10月~1989年12月)、デフレからの脱却2003年4月~と順調に見えたところ、リーマンショック以降浮かび上がっていません。
追い討ちをかけて東日本震災です。
一部に大企業の内部留保の取り崩しという意見がありますが、これは、リーマン問題の前に、ビッグバンという日本の会計基準をアメリカ式の会計基準への変更をさせられた企業問題があります。会社の多くは株式を上場していますので、内部留保を厚くして株主配当をアメリカ並みに高く支払うことが必要になりました。配当が低いと株は手放され、株価は下落し、一部の投資家に買い占められ、会社を乗っ取られるか、高値で自社株を買い取らなければならなくなります。今の大企業は株価を常に高値に維持し、株主離れを防ぐ必要があります。
ですから、内部留保を放出することはありえません。
かつての景気に浮かれており、社会保障は自助努力でなどと言っていた自民・公明に今更言っても始まりませんし、御用組合から成り立ってきた民主に、本当の社会保障が理解できるわけがありません。
江戸時代から役人天国だった日本に、本当の民主主義の社会保障制度を定着できるよう、是非頑張って下さい。
生活保護申請が急増している現在、役所が悲鳴を上げるほど申請を強行し、行政が反省し、働く場所を提供してくるようになるまで、働く権利、生きる権利を主張して下さい。
投稿情報: スカオヤジ66 | 2011年5 月13日 (金) 14:16