先日、多喜二の研究家の島村輝先生のお話を聴く機会があった。その時に画像の左側の本を手に入れた。今年に入って多喜二の蟹工船が売れに売れているということで、それを若い人たちがどんなふうに読んでいるかということにスポットをあてて出された本だ。これを読むにあたって、“考えてみたらアタシは蟹工船をちゃんと読んでなかったな”ってことに気付いた。ずーっと以前に中古本を買って数ページ繰ったあと、つまんねーって読むの止めちまった記憶がある。その後、とある機会に映画を観た。暗~いそんな印象しかもってない。その蟹工船が何でこんなに若者にウケるのか?
それで、若い人の感想文を読むにはモトを読まなきゃ話にならんってことで、今回改めて「蟹工船」を手に入れて読んでみた。(画像右側)
新潮文庫から出ているこの初版本の表紙を復活させた本は、聞くところによるとすごい売れ行きらしい。私の手に入れた本も平成20年6月15日101刷となっていた!
表現力がまずすごいなと思った。小説家ってどうしてこんなに描写力に長けているんだろう?描写力っていうより自分で作り出した表現力だなぁ。「~のような」という修飾がたくさん出てくるのだけど、そのどれにもいちいちうならされた。美しいものは1つも出てこない。行間から臭気さえ漂ってきそうで、これでもかこれでもかというくらい汚いものが続く。重くて、汚くて、暗い。
映画では最後のところで眠ってしまっていたのか・・・労働者がとっ捕まってジ・エンドだったことしか覚えていない。だから希望がないなぁという印象しかなかった。しかし、小説では「そして、彼らは立ち上がった。_もう1度!」で終わっている。これにはニヤニヤせざるを得ない。それと団結することの科学的根拠もちりばめられている。そして結局、漁夫たちを人間扱いしなかった監督自身が最後は捨てられる。つまり資本家は恣意的に階層を作りいがみあわせるよう仕組んでいたということがほのめかされている。ロシア人と一緒にいた支那人(原文のまま)が身振り手振り複雑な日本語で階級闘争について語る場面があり、そこは圧巻だった。
これで、やっと若い人々の感想文が読める。なぜ、今、こんなに「蟹工船」が読まれているのか?社会的背景には違いないが、もっと深く掘り下げて考えてみよう。
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