今読んでいる本にこんなことが載っていた。
どんなにお金を積んでも逆立ちして頑張っても、自分の力ではどうすることもできないこと、それは次の2つ。①自分の意志ではなくこの世に生まれてきたこと。②生まれてきた人間は誰でも必ず死ぬということ。
言われるまでもないことだけど、改めてハッとする。
上町から衣笠にぬけるバス通りの葬儀屋さんの入口に「万が一のときにはご相談ください。」と出ている。万が一どころか、100%絶対にやってくることなのにといつもそれを見ると笑ってしまう。①と②はそれぞれよく頭に想起される。しかし、こうして2つ並べて提起されると、感動にも似た思いがある。
先日、両親の墓に行ってきた。前回行ったのはいつだったか・・・。すでに思い出せないくらいの忘却の彼方。たぶん、7年は行ってないのではないか。信心浅い私は、生存中の自分にばかり夢中でついぞ両親のことなど考えられなかった。いや、考えは浮かんだが、いかんせん遠い。ひょいと行く距離ではない。千葉県の印旛村なのだ。今回は去年自 動車免許を取得した息子と2人で運転して往復した。想像以上に石は苔が付き両側の植木が夜店の綿菓子みたいに広がって卒塔婆は朽ち始めていた。つぎはお掃除道具完備でこなければ!そう誓った。
心理学者の國分康孝氏が本の中で恒例行事を「リチュアル」といい毎年繰り返すうちにアイデンティティが生まれると言っていた。そのコミュニティーの一員であるという強い意識ということだろうと思う。墓参りという行動などは今ある自分を父母、祖父母の継承者といった位置づけで考えたりするいい機会ではある。日々の暮らしを客観視する契機にもなる。
しかし・・・、母が死んだ時、息子はヨチヨチ歩きだった。父が死んだ時は小2になろうとする時。その息子が免許を取り交替で遠方の墓へ車を走らせるとは・・・。時間の流れの不可思議さである。
はじめに書いた2つのこと、とりわけ②のほうを常に肝に銘じて今日も生きよう。
コメント